支えとなる生き方

人は、生きる上において、無念さ、歯がゆさを多々経験するものだ。

おとなしい性質、優しき性質の人間は、エネルギーの強い人に、ややもすると、その良さをかき消されたりもする。
競争の社会のなかでは、自己保身の饒舌や立ち回りの良さが、一見生きていくなかで優位を創っていく。
歴史上を振り返っても、現代社会における組織においても、ひとつの強いエネルギーによって発展形成され進化を続ける。

しかしながら、そのリードするエネルギーによって、謂わば、常に陰に隠れ後塵を拝すような人生があるのも事実だ。
氷山の一角の如く、時に事の真実が消される。

会社という組織でも、政治の世界でも、広く社会という枠組みのなかでも、
誠実のなかの無念さは多々あるものだ。

歴史上においても、英雄と呼ばれる人物に隠れて数々存在する、際に生きた人物達が、脚光を浴び、歴史の道筋を拓いて名を残した人物に比して、「人」としての観点において劣るのかといえば、決してそうは言えない。
また激動期において、私心を持たずに崇高なる志を持って事に向かい、結果尊き名を歴史に刻んだ人、歴史の隅に散った人物もいる。

人生における数々の不条理、そして時に無念さということ。

果たして不公平というものはあるのか。

自分が生きた道というものに照らして、それが、懸命に誠実に自負できる証として、自らが胸に手を当て偽りのないものならば、それはもう、すでに紛れもなく数々の悔しさ、無念さを超えて、例え小さなかがり火の様でも、消えることのない、人生を生きる支えの灯火となりえるのだと確信する。

A.Jクローニンというスコットランド生まれの作家の「青春の生き方」。

貧しき乏しい環境のなか、細菌研究に苦心する若き医学者と、彼に愛情を注ぐ女子医学生が主人公の小説。

その最終場面あたりに出てくる話し・・・

>
心血注いで研究した成果が陽の目をみようとした寸前、組織的な大学の研究チームによってしたたかに出し抜かれ、彼のそれまでの苦労は泡と消えてしまった。
・・・

その純潔な物語の最終のその場面に、
彼を愛し支え続けた彼女は、落胆している彼にこう言う。

「誰が分らなくてもいいではないの」
「あなたがこれまでしてきた事実と、そしてその事実を、少なくとも私は知っている」
「だから悔やむことはない <

その時、私はその場面に深く感動したものだ。

人は表に目立つか目立たないか、
常にフットライトを浴びる人と、時に日陰に甘んじている人と。
しかし、その立ち位置というものと、人の「格」というものは正比例しないということ。

人生におけるスターと脇役。
が、例え今、後塵をはいするような立ち位置であろうとも、決して懸命さと誠実さを失わないことが結果幸運を呼び込む必須条件だ。

何事にもめげないひたむきさは、いつにおいても必要不可欠。
幸運を手元に呼び込むためには、決してあきらめず、前に希望を失わず、一歩踏み出す勇気持つこと。

時に饒舌さと、抜け目ない相手の立ち回りに数々苦汁を飲まされることがあるとしても、真摯に生きる事実を我は知るで、自らの懐深く落としこみ、確かな礎になりえる。

真摯に精進することによって生まれる、飛び切り上等の縁というものが確信できれば、悔やむこともない。
人としてのレベルにおいて縁は縁を呼ぶ。
それを信じることだ。

そして不公平などあるはずがない。
人の世の、多くの仮の矛盾のなかで、大宇宙的な悠久の時の捉え方ですると、決して不公平などないとなる。
そう断言してこそ、陰に埋もれて懸命に生きる人が、まるで炙り絵の様に、陽の目をみるのだと考える。
そして、決して失われることのない、万人に向け不変に存在する、希望もまた見えてくる。

我こそが我を知る。

自分が自分自身をどう生きたかが大切であり、少なくともそう自負できる己を知るものがひとり。
そして、何言わずともしっかり見守る天が存在する。
しかるに、いついかなる時にも、決して独りではないと言えるのだ。

万一孤独になるときには、自分自身に対話をすればいいだろう。
外に翻弄されるより、対峙するは我なり。

誠実な自分自身を信頼し、天に見守られ今日を、そして明日に希望を持って生きるということ。
さすれば、きっと価値あるものを、身近に手にすることができるはず。

誠実に生き、努力を惜しまない人を、天は見捨てない。見捨てるはずがない。

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